北斎は、宝暦10年(1760年)、江戸本所に生まれ、安永8年(1779年)、勝川春朗の画号をもって浮世絵画壇に登場しました。以降約15年間、役者似顔絵、肉筆美人画の名手・勝川春章の下で役者絵や美人画、戯作の挿絵などに筆を揮いました。
勝川派から離脱した北斎は、寛政6年(1794年)、俵屋宗理と号して自らの個性を自由に表出し始め、特に美人画では、憂いを含んだ宗理様式と称される画風を完成し、狂歌絵本や摺物に清新な若さ漲る佳作を遺しました。
寛政10年(1798年)、宗理の号を門人に譲った北斎は、北斎辰政と号し、以降どの画派にも属することなく、独立の画業を全うしました。享和年間(1801〜1803年)から洋風画の制作を試みた北斎は、文化年間(1804〜1818年)に至ると、長編小説の読本挿絵に筆を揮い、馬琴作「椿説弓張月」など近世文学に欠くことのできない作品を数多く手がけています。この時期の肉筆画は、北斎の生涯中、美人など最も多くの風俗画を描いている点でも注目されます。
読本挿絵と肉筆画の分野に傾注した北斎は文化7年(1810年)、画号を戴斗と改め、文化11年(1814年)「北斎漫画」初編を版行しました。これを期に北斎は、集中的に様々な内容の絵手本を発表しました。絵手本への傾注は、人気の高さから私淑者や門人が多数存在していたことを窺わせます。
文政3年(1820年)正月の摺物に、北斎は北斎改為一と署名しています。天保4年(1833年)まで続く為一号の年代には、生涯のうち最も錦絵に傾注しました。「富嶽三十六景」、「諸国瀧廻り」、「千絵の海」、「詩歌写真鏡」など北斎の代表作とされる風景版画や花鳥画などは、その大半がこの年代に刊行されたものです。この時期の肉筆画は寡作といえますが、独特な花鳥画に加え、美人画のほぼ最後を飾る優品ぞろいの年代といえます。
北斎75歳の天保5年(1834年)、風景絵本の傑作「富嶽百景」初編を上梓します。この書中に画狂老人卍と署し、百有十歳までの長寿と、それに伴う作画への情熱を跋文で表明しています。北斎はこれ以降、木版画界では絵本や絵手本を除き、錦絵の分野から急速に遠ざかり、最晩年の精力を、動植物や宗教的題材、あるいは和漢の故事古典に基づく歴史画や物語絵など、肉筆画の分野に注ぎました。
北斎が小布施に現れたのは天保13年(1842年)、83歳の時でした。江戸で知り合った小布施の商人、高井鴻山に招かれてやってきた北斎は、これ以降小布施に足を運ぶこと4回、最後に訪れたのは88歳の時でした。小布施ではもっぱら肉筆画に徹して東町、上町の祭り屋台の天井絵、岩松院の天井絵などの傑作を残しています。
北斎は、最後の小布施逗留から江戸へ帰った翌年の嘉永2年(1849年)、90歳の生涯を閉じています。
「小布施町公式HP:北斎の生涯より」