1760年
江戸本所割下水に生まれた。幼名は太郎。後に鉄蔵。
1764年
幕府用達鏡師であった中島伊勢の養子となった。
1778年
勝川春章の門に入った。狩野派や中国画、西洋画などあらゆる画法を学び、風景画を多く手がけた。この頃は「春朗」という号だった。
1795年
「宗理」の号を用いる。
1805年
「葛飾北斎」の号を用いる。
1810年
「戴斗」の号を用いる。1814年に北斎漫画を手がける。
1820年
「為一」の号を用いる。富嶽三十六景は、1823年に開版し、1831年に完結する。
1834年
「卍」の号を用いる。富嶽百景を手がける。
1849年 5月10日
浅草聖天町遍照院境内の仮宅で没する。享年90。辞世の句「人魂で 行く気散じや 夏野原」